穏やかな風が、ポニーの丘に吹き抜ける。
優しい朝の太陽の陽射しが草むらに広がり、照らすものすべてを包み込んでいた。
丘の上に立っている二人の身体をも照らすその光は、まるで抱擁してくれているように安らぎを与えてくれ、心地良かった。
二人は、目の前に広がる雄大な景色を眺めていた。
アーロンは、あの日のことを思い出していた。
キャンディと一緒にこの同じ場所に立ち、ボストンでの仕事を諦め、ここで町医者になると告げたあの日のことを──。
それは、寒い冬だったことを除けば、今日とさほど変わりない日であった。
この美しい景色を見渡していたあの時のアーロンには、その後の人生航路は、明確に思えた。
『ボストンでのお仕事に未練はないのですか?評判の良い病院なのでしょう? 』
キャンディは訊ねた。
アーロンは、笑うだけで答えなかった。
どうキャンディに説明できただろう──。
キャンディをひと目見たあの瞬間からここを離れたくない、と思ったことなど──。
アーロンの心は、キャンディの笑顔に釘付けになった。
周りにいる人々の魂を浮き立たせる元気の源であるかのように、幸せを振りまく影響力のあるあの笑顔に──。
気さくで、いたずら好きで、おっちょこちょいな一面とは裏腹に、内には山のような強さを秘めた少女。
深く輝くエメラルド色の瞳は、それらを見たどんな男性をも虜にしてしまう。
丘を自由に駆け回り、魅惑的な緑の瞳をたたえ、頬を赤く染めながら、異性に色香を振りまいていることなど、キャンディ自身、全く気づいてもいない。
では、ここに残った理由は何だったのだろう?
ボストンにいながら、どうやってキャンディの愛を得られたというのか?
マーチン先生の突然の引退宣言と、診療所を継いで欲しいという申し出。
アーロンは、マーチン先生が自分のキャンディへの気持ちを薄々察し、先生なりにキャンディとの仲を取りもとうとしていたことを知っていた。
勿論、キャンディは何も気づいていなかったけれど──。
自分の気持ちを伝えるのに1年かかってしまった。
なぜなら、アーロンが気を引こうといろいろ試してみようが、キャンディは無関心なのか、何も気づかなかったから──。
そして、ついにあの日、キャンディにとっても、自分にとっても予想外だったが、やっと告げられたのだ。
『──キャンディ、......もし僕が、......僕が求めているのは、......君だけだと言ったら?』
アーロンが思い描いていた光景とは程遠かった。
頭の中で最高の告白シーンを何百回も想像していた。
答えを懇願していたその質問は、不意に飛び出した。
あれから3年たった──。
このまま、今後もこうして過ごせるならば、後悔することなど何もないだろう。
キャンディとアーロンは広大な牧歌的な景色を見ながら並んで立っていた。
アーロンは何かを予感していた。
キャンディは何も言ない。
アーロンは、キャンディが離れていく、そんな距離間を感じていた。
時が経つごとに距離は広がっていく。
「言ってくれないか?僕に何を言いたいのか......」
キャンディはアーロンに向きなおると、二人は見つめ合った。
アーロンの目元や口元に浮かぶ表情は悲痛に満ちていた。
キャンディの胸は、またもや張り裂けそうだった。
「このまま、......進められないと、......決めたの。結婚式......」
アーロンは、キャンディから目を逸らし再び景色を見た。
美しい夏の日の始まりを彩る輝く陽射しは、アーロンの心の中の暗雲の立ち込めた嵐とは正反対だった。
「わたしが今何を言っても、あなたに理解してもらえるのかどうか、わからないけれど......」
キャンディは、アーロンを見た。
キャンディの胸は苦しかった。
苦しみや悲しみを誰かに、特にアーロンに与えてしまうことは、キャンディの意志に反していた。
キャンディは、正しいことをすることが、こんな膨大な苦しみを自分や、自分が深く愛する人に与えてしまうことが、今もなお理解できなかった。
「......でも、わかって欲しいの。......わたしの決断は、......他の誰かを選んだこととは、......関係ないのよ。......愛しているわ、アーロン。あなたが、今信じている以上に......。あなたを愛しているから、だからこう決めたのよ。今ならわかるの。あなたを愛しているという感情も......。でもわたしの胸は、他の誰かを思うとより強く鼓動するの。彼を、......ずっと愛してた。彼と分かち合ってきたものは、いつだってここにあったの。深く埋めて、目を逸らすこともできるわ。でも、それはここにあって、どこにもいかないの。わたしには、変えることはできない......。本当に、......本当にごめんなさい......。今の今まで気づかなかったなんて......」
アーロンの心は沈んでいった。
まるで、船が計り知れない深い海の底にゆっくりと沈んでいき、二度と陽の光を見ることが出来ないように──。
「......今、やっとわかったの」
キャンディは、更に続けた。
「あなたは、わたし以上にあなたを思い、愛してくれる人と巡り合うべきなのよ」
アーロンは、悲しげに苦笑いした。
「あなたを愛しているから、アーロン......。あなただけを思って、より強く胸の鼓動を感じてくれる、そんな女性を見つけて欲しいの。わたしが、他の誰かにするように......。これが、その男性(ヒト)と一緒になろうがなるまいが、わたしが決めた理由なのよ」
キャンディは、アーロンの表情を見た。
伝えたことを理解しているのか、わからなかった。
咄嗟に、アーロンを抱き寄せて、苦しみを和らげてあげたい思いに駆られた。
でもそれが、アーロンを余計に傷つけることも知っていた。
「僕は、ここでの僕達の将来の生活を夢見ていた。子供達が生まれて、この丘を駆け回る──。僕達の毎日は、その子らの笑い声で満たされていく。そして孫達もだ。たくさんのね......」
アーロンは静かに言った。
(何故、たった2週間で、全てが間違った方へと変わってしまったんだ!)
「わたしも、同じようなことを夢見ていたわ......」
アーロンは、キャンディを見た。
キャンディの金色の髪が優しく風になびいていた。
キャンディは、目の前に広がる景色を見ていた。
「この丘で、まさにこの場所で、この景色を見ながら様々なことを夢見てきたの──。子供の時は、ただただ養女になることだけを願っていたわ。養女になってからは、アードレー家に相応しいレディになることが夢になったの」
(その後は、......あのひとを探すことを夢見たんだわ。わたしがポニーの家に着いた時には行ってしまったあのひと──。使ったコーヒーカップは、まだ温かかったのに──)
「それなのに、人生って、わたしが夢に近づいていると思うと、道を反れてしまうのよね」
アーロンは、ただキャンディの言葉を聞いていた。
目の前に立っているのに、キャンディはもう自分と同じ世界にはいないのだと悟った。
アーロンは自分の心が底なし沼になってしまったように感じていた。
キャンディを失う苦しみは、終わりは無いのだ、と思い知らされるほど深い底無し沼に落ちていくようだった。
「僕達が培ってきたものは、何だったんだい?君には無意味だった、と云うのかい?」
「一緒に過ごした年月は、......わたしにとってもとても大切なものだわ。......代えられるものなど何も無いのよ」
キャンディの瞳には涙が溢れていた。
「あなたは、素晴らしい人よ。もし、あなたを選んだら、わたし達、喧嘩をするかもしれないし、あなたは、幸せだと思うかもしれない。でも、わたしには、あなたが真実望んでいる愛を、与えることは出来ないでしょう。そんな愛、......美しい愛。わたしに出来るならば、──あなたにあげるわ」
涙声で続けた。
「でも、......出来ないのよ。あなたを愛しているから、......だからこそあなたには、それが出来る女性をいつか見つけて欲しいと、心から願っているの──」
キャンディは最後にもう一度、自分の指にはめられた美しいエメラルドの婚約指輪を見た。
指輪をそっと外すと、アーロンの手を取った。
指輪を乗せたアーロンの手のひらを閉じると、キャンディは両手でその手を握りしめた。
アーロンはうつむいた。
瞬時に、自分に宿る魂も生気も全てを失ったように感じた。
キャンディの目を見られない。
下を向いて、髪で顔が隠れていても、キャンディにはアーロンが涙を流しているのが見えた。
キャンディはアーロンの頬にそっと触れ涙を拭った。
アーロンの傷を癒やす為に、もっと何かしてあげたかった。
しかし、キャンディには、もう何も出来ない──。
涙のしたたる頬に優しく口づけた──。
「......さようなら、アーロン」
キャンディは、静かに言うと、ゆっくりと去って行った。
アーロンは、キャンディの姿が丘から見えなくなるのを、ただ見つめていた。
「キャンディ......」
囁くしかなかった。
******
「キャンディ!」
コーンウェル宅に戻ろうと、辻馬車に乗ろうとしたキャンディを、叫び声が呼び止めた。
振り返るとセシリアだった。
キャンディは罪の意識に覆われ、哀しみで胸が痛かった。
「キャンディ!兄さんを本当にこんなふうに諦めてしまうの?」
セシリアの顔は悲しそうで、声は震えていた。
「セシリア、......ごめんなさい。......本当にごめんなさい」
「わからないわ。わたしには全く理解できないわ。どうしたらこんなことがわたし達に出来るの?どうしてあなたは、兄さんにこんなことを!」
キャンディには、セシリアを黙って見つめることしか出来なかった。
「そうしてあなたは、あの男のところに行こうとしているのね」
キャンディはずっと黙ったままだった。
セシリアは、深く息を吸い込むとこう告げた。
「もう、......手遅れよ。彼はいないわ」
「もう、......いないって?」
キャンディには、セシリアが何を言っているのかわからなかった。
「あなたが以前書いた手紙。わたし、それを彼に渡したの。彼にはあなたが兄さんを選んだって伝えたわ。彼は、......昨日出発したのよ」
「そんな!!」
キャンディは叫んだ。
キャンディは急いで辻馬車に乗り込もうとした。
(──テリィを探しに行かなくちゃ! )
「キャンディ!」
セシリアは、キャンディの腕を掴んだ。
「キャンディ、お願いよ!何をしているのかよく考えてみて!まだ遅くはないのよ。正しことをしてちょうだい!」
それを聞いて、キャンディはセシリアに振り返り、はっきりと言った。
「ごめんなさい、セシリア。でもあなたは正しいわ。正しことをすることに、わたしはまだ間に合うのよ! 」
「クレアモント・インへ。急いで!」
キャンディは、馭者に告げた。
セシリアは信じられずに、辻馬車が走り去って行くのを見ていた。
追いかけたかったが、誰かに肩を捕まれ引き戻された。
振り返ると、それはアーロンだった。
アーロンは、キャンディが道路からも、自分の人生からも、消えていく様をただ佇んで見つめていた──。