サウス・ヘヴンへの帰路中、テリィはいつもよりゆっくりと車を走らせていた。
キャンディとの残された時間を惜しむかのように──。
テリィは、悲しみに包まれていた。
この後何が起こるのかわからない──。
テリィにはキャンディも同じことを考えているように見えた。
二人は、クレアモント・インに戻って来た。
やるせない沈黙が漂う。
(おれといてくれと言ってしまいたい!本当に4日で終わりにしたいのか、と──)
テリィが尋ねようとキャンディを見ると、キャンディの顔は、苦渋に満ちていた。
言葉は、喉につかえてしまった。
(──おれがここにいることが、キャンディを苦しめているのか......)
テリィは、10年前の事を思い出していた。
キャンディは、自分がいることがテリィを苦しめるからニューヨークを去ると、頑なに言い放った。
過去の記憶はテリィの心を苦しめ、全身の血の気を失っていくように感じた。
キャンディの表情が、明るい笑顔に変わった。
しかし、テリィにはキャンディが自分の気持ちを隠して、テリィを傷つけまいとしていることがわかった。
「テリィ、......何が正しいことなのか、考えるから。......本当よ」
キャンディは、テリィを安心させるように言った。
テリィはキャンディを見ながら眉をひそめていた。
不意にキャンディは、テリィに近づくと優しく口づけた。
「きちんと考えるから......」
キャンディは、笑顔のまま振り向いてそう言ったが、テリィは、頬に溢れる涙を見逃さなかった。
(──キャンディに幸せになって欲しい。それなのに、──おれのせいで幸せじゃあないなんて......)
テリィは、キャンディを見送りながら、自分の行動に初めて疑問を感じていた。
******
キャンディは、ハーレー宅へと歩いていた。
アーロンはもう戻ってきているはずだ。
キャンディはアーロンに会いに行くべきだと思った。
何をしていいのか今もわからずにいたが、これ以上アーロンに秘密を持ちたくなかった。
来月の結婚式は、ありえないことだった。
こんなにも強くテリィを想っている時に結婚なんて......。
(でも、アーロンのことも愛している......)
キャンディが、アーロンが家族と一緒に住んでいる家に近づくと、手彫りの小さな人形が窓辺に並べられているのが見えてきた。
サウス・ヘヴンに引っ越してきてから、アーロンは木彫りを趣味としていた。
アーロンはとても器用で、ノミ打ちの技術は精細だった。
研修を終えたばかりのアーロンが、そのままボストンに行っていたならば、今頃は立派な外科医としての地位を確立していただろう。
彫刻の人形は、美しく複雑なデザインだった。
アーロンは時々、ポニーの家の子供達の為に動物を彫ってくれた。
1年前のクリスマスに、アーロンは自分で彫ったラヴスプーンをキャンディにプレゼントしてくれた。
それは今もキャンディのベッドの上の壁に飾ってある。
キャンディはそのことを思い、温かい愛情が湧き上がってくるのを感じた。
ハーレー宅の玄関の扉を叩きながらも、キャンディの気持ちは沈んでいた。
扉を開けたのはセシリアだった。
「キャンディ!」
キャンディの名前を耳にして、アーロンも出迎えに来た。
「キャンディ!」
アーロンの声は、会えた嬉しさで満ちていた。
しかし、アーロンの幸福感は、より一層キャンディに罪悪感をもたらした。
アーロンは、キャンディを引き寄せて抱きしめた。
キャンディも抱きしめ返していたが、アーロンの顔を見上げ、訊ねた。
「──二人だけで話したいのだけれど......」
「もちろんさ」
アーロンはキャンディの手を取ると、家の外へと導いた。
セシリアは疑惑めいた視線を向けていた。
外に出て二人きりになると、アーロンはキャンディの苦渋に満ちた表情に気づいた。
「何か、......あったのかい?」
キャンディの瞳から涙がこぼれだす。
「......結婚式、......来月には挙げられないの......」
「......どうしてだい?」
アーロンは、困惑して訊いた。
「......アーロン、あなたをとても愛しています。......でも、ここ数日の間で、......他の男性のことも、とても愛していることに気づいてしまったの......」
キャンディは、泣きながら告げた。
驚きを隠せずアーロンは訊ねた。
「キャンディ?一体、......何を言っているんだい?......誰のことを言っているんだい?」
「......ずっと昔から知っている人なの。わたし達は、......とても愛し合っていたわ。でも、......別れてしまった......」
そうして、キャンディは、テリィのこと、スザナのこと、ニューヨークを去ったいきさつを話し始めた。
キャンディの言葉は涙混じりで、泣き止むことも出来なかった。
アーロンは、ただただ驚くばかりで、キャンディが何を伝えようとしているのかわからなくなった。
「......テリィが、......わたしに会いに、......ここに来たの。婚約しているって伝えたわ。......そしてテリィにはノーって言おうとしたのよ。......でもわたし、......でもわたし......」
アーロンは言葉を失い、キャンディを見つめていた。
やがてキャンディは息を整えると、アーロンの顔を見た。
キャンディは、自分が与えてしまった苦しみに満ちたアーロンの瞳を見た。
そして、自分の胸にはナイフが突き刺さっているように感じていた。
「......愛しているわ、アーロン。でも、......テリィのことも愛しているの。 ......どうしたらいいのか、分からないの。でも、他の男性を愛しながらあなたと結婚するのは、あなたへの裏切りだわ。......ごめんなさい。......本当にごめんなさい......。あなたがわたしを許してくれるのか、今もまだわたしと結婚したいのか分からない......。でも、あなたには知っておいて欲しかったの。あなたには、......正直でいたいの......」
まるで生気を失ったように真っ白な石のようになっていくアーロンの顔を、キャンディは、涙のこぼれ落ちる瞳で見つめていた。
「......ごめんなさい」
キャンディは、もう一度そう告げると、通りへと歩き出した。
馬車を見かけ、乗り込もうとした。
窓から二人が話しているのをずっと見ていたセシリアは、家から飛び出すとキャンディの後を追った。
キャンディが馬車に足をかけた時に、セシリアが、キャンディを呼び止めた。
「キャンディ!」
叫ぶセシリアの瞳も涙で潤んでいた。
「兄さんを傷つけないって約束したじゃない!」
キャンディは振り向いてセシリアを見た。
皆に与えている苦悩による罪悪感で押しつぶされそうだった。
「ごめんなさい!」
キャンディは、そう叫ぶと馬車に乗り込み去っていった。
遠ざかる馬車を見送りながらセシリアは、希望を失っていた。
セシリアは振り返り、兄アーロンの驚き、悲しみに打ちひしがれた顔を見た。
馬車は、アーチーとアニーの住むコーンウェル宅へと向かっていた。
ポニーの家には帰りたくなかった。
こんな状態では、ポニー先生、レイン先生、子供達を心配させてしまう。
コーンウェル宅の居間で、キャンディはアニーの腕の中で泣いた。
アーチーもアニーもキャンディを慰めたかったが、何と言っていいかわからなかった。
******
キャンディは、アーロンがその夜の内に訪ねてきたことに驚いた。
「あちこち探し回ったよ」
コーンウェル宅の居間で、アーロンとキャンディは立ったまま見つめ合っていた。
アーロンの優しい顔に広がった、これまで見たことの無い悲しみに耐えている表情をキャンディは捉えた。
こんなにもアーロンを傷つけているのは他でもない自分なのだと強く思った......。
「......僕達は、......3年一緒だったんだよ、キャンディ......。君は、そのすべてを、遠い過去の子供の頃の恋愛ごっこの為に、投げ打ってしまうのかい?」
(──でも、遠い過去のことではないのよ。終わっていなかったんですもの。それに気づいていなかっただけなの──)
「君は、......もう、......決めてしまったのかい?」
キャンディは、唇を噛みながら首を横に振った。
「僕はシカゴに行くべきでは、......なかったのかな?」
「何も、......変わりはしなかったと思うわ」
キャンディは、再び瞳に涙を浮かべながら答えた。
「君を、......失いたくないんだ、キャンディ」
アーロンの肩が、身体全体が、強張ってきた。
「この4年間は、......僕の人生にとってこの上ない幸福の時だったんだ」
「わたしにとっても、......幸せな時だったわ」
「ここに来るまで、僕が望んでいたのは、外科医として成功することだった。ボストンで一番の、いやたぶん、アメリカで一番の外科医になりたかった」
キャンディは、彼の言葉を噛み締めた。
心は粉々に砕け散っていった。
「でもここに来て、そして君と出会った」
アーロンは更に続けた。
「毎朝起きたら、君の輝く笑顔を見て、君の声を聞く、それが望みになった」
「決してあなたを傷つけたくはないのよ......」
囁いたキャンディは、苦悩に見舞われる。
「僕は、今も君との人生を夢見ているんだ、キャンディ。ポニーの丘、 この素晴らしい自然に囲まれた美しい毎日、ポニーの家の子供達の笑い声、そして愛する人達が周りにいる、そんな人生を......」
アーロンは、キャンディに近づくと、キャンディの肩に優しく手を乗せ、口づけた。
(──この唇を永遠に僕のものにする為だったら、僕は、何だってするさ)
「......君を失いたくないんだ。......戻っておいで」
アーロンは、去る前にもう一度言った。
キャンディは、アーロンの背中を見ていた。
アーロン......、いつも平然として、生き生きとしているアーロン......。
今では、すっかり魂すべてが抜けてしまったように歩いていた。
キャンディは胸が苦しかった。
『......戻っておいで』
アーロンの言葉がキャンディの心の中で繰り返し鳴り響いていた。
(消すことができない燃え盛る炎のようなテリィへの愛を感じながら、心いっぱいの穏やかなアーロンへの愛も感じているんだわ......)
まるでプリズムが織りなす光の迷路の中を歩いているようだった。
テリィから放たれる燃えるようなオレンジ色と赤色が磁石のようにキャンディを引き付ける。
その一方で、無限で揺るぎない白色彩のアーロンがキャンディを呼び戻す。
どちらへ行けばいいの──。