キャンディとテリィがホテルに戻ると、そこは妙に静かだった。
誰もかれもが、去ってしまったようだった。
「みんな、どこへ行ったのかしら?」
キャンディは、つぶやいた。
「さあな。多分、カサンドラが何か面白いものでも見つけて、皆で見に行ったってところか?」
「きっとそうね。夕食用に着替えてくるわ。カサンドラが戻って来たときの為に 」
キャンディは、テリィに満面の笑みでそう言うと、自分の部屋へと向かった。
テリィは、キャンディを見ながら、また1日が終わってしまうことが益々悲しくなってきた。
(──今日はおれ達のここでの最後の夜か──)
テリィは、ピアノの上のメモに気がついた。
『テリュース
今夜はペントウォーターで、ひと騒ぎしてくることに決めました。世間の注目も必要だし、わたしを時折り、今でもスターだと思わせてくれるファンがうるさいのよ。従業員も全員連れていきます。わたしが彼らなしでは、何一つまともに出来ないことは、あなたも知っているでしょう?明日の朝には戻ります。おもてなしが出来なくてごめんなさいね。次は埋め合わせさせていただくわ。チェルシーが用意した夕食が、台所にあります。
C.L』
テリィは、思わず笑ってしまった。
緊張がほぐれ、ベストを脱ぎ、蝶ネクタイとシャツの一番上のボタンを外すと、ホテルの応接間へと向かった。
再びピアノを弾きたい衝動にかられた。
二階ではキャンディが、ベッドの上にカサンドラが準備しておいた黒い豪華なドレスを見ていた。
すべてが黒で飾られていたレース地のドレスには、ラッパビーズが散りばめられ、ビーズのベルト、サテン絹のリボンもついていた。
ドレスを胸にあて鏡の前にたった。
ほんの数日前まで、キャンディはこんなにも大胆で露出した服など、着る度胸もなかった。
それが今では、カサンドラから借りたドレスにすっかり慣れてしまっていた。
それはただドレスが美しかったからではなかった。
キャンディは、それらに身を包み気軽に動き回れることが好きだった。
身軽な動きと、束縛されない感情を楽しんでいた。
( テリィがわたしの首筋やあらわになった肩に触れる感触も大好き......)
キャンディは、そんなふうに考えている自分に驚き、恥ずかしくなって、鏡に映る自分の姿から慌てて目を逸らした。
キャンディが下の階に行くと、テリィが静かでロマンティックで、そして耳をくすぐるような曲をピアノで弾いていた。
キャンディは、テリィがモーツァルトとクラシック音楽を弾くのを聞いたことはあった。
しかしここ数日、テリィはジャズも弾いていた。
ピアノを弾くテリィの姿は、キャンディがセントポール学院の音楽室で初めて見た時のように、格好良くて穏やかだった。
キャンディは、応接間の入り口に寄りかかり、テリィの奏でる美しい旋律に聴き入り、酔いしれていた。
演奏を終えたテリィは、キャンディに気づき顔を上げた。
キャンディはテリィに近づいていくと、隣に座って訊ねた。
「なんていう曲?素敵ね 」
テリィは、ほほ笑みながらキャンディを見て言った。
「 "わたしの愛している人" さ。君がおれに言いたいんじゃないかと思ってね」
キャンディは、懲らしめるような表情になり言った。
「図々しいんだから──」
テリィは、笑いながらキャンディの手を取り言った。
「キャンディ、これはブロードウェーミュージカル用に偉大な作曲家が書いた曲だぜ。残念ながら省略されて使われなかったけどな。ほとんどの人が聞いたこともないんだ。でもいい曲さ。作曲家を知っているんだ」
「そうなの?」
キャンディは訊ねながら、テリィがいる世界は、自分とは違うのだと思っていた。
テリィが会う、一般人とは呼べない作曲家や、カサンドラのような人達──。
「──わたし、あなたの弾くピアノが好きよ」
(...... わたしの心を溶かしてしまう......あなたの音色が......)
キャンディをあらためて見たテリィは、挑発的な黒いドレス姿に言葉を失ってしまった。
テリィは、かつての自分達がいかに幼かったのかを思い知った。
もっと大人だったら、後ろなど振り返ることなくキャンディと一緒にセントポール学院をおさらばできたのにと、学生牢の外で願ったあの夜のことを思い出した。
今、自分達は成長した。
目の前にいるキャンディは、もはやあの時の少女ではなかった。
(──おれ達はもう大人なんだ。キャンディとおれ。おれ達は......)
テリィは、我に返った──。
手を引っ込めるまで、キャンディの肩をぼんやりと見つめながら、無意識のうちにストラップをほんの少しだけ下げていたことに気づかなかった。
自分自身の行動に慌てたテリィは、ハッとしてキャンディの顔を見詰め返した。
その瞬間、二人の瞳が互いを捉えた。
「......君は......なんて綺麗なんだ」
テリィの声は、穏やかで優しかった。
「あなたからそんなにたくさん褒められちゃうなんて......」
キャンディはいたずらっぽくテリィを見ると、目を逸らす前にこう囁いた。
「でも、あなたの褒め言葉、......好きよ」
キャンディは、胸の鼓動がまた高鳴るのを感じた。
「今、ここには誰もいないんだ。カサンドラがペントウォーターに全員連れて行ってしまった。明日の朝には戻るとメモを残していったよ」
「──わたし達、明日の朝までここで、......二人きりなの? 」
キャンディは不安になってきた。
しばらくの間、二人ともなんと言っていいかわからずにいた。
急に、ザワザワしはじめた。
「ねぇ、もう一曲弾いてくれない?」
キャンディは緊張をほぐそうと、テリィに言った。
テリィも少し安心した。
「あぁ、いいよ」
そうしてテリィは、キャンディが飛び跳ねて踊りだしたくなるような、楽しげで軽快な転がるようなテンポの曲を弾き始めた。
「わぉ!テリィ、すごいわ!そんなに早く指を動かせるなんて!」
キャンディは、テリィが弾き終えると褒め称えた。
「今の曲は "Swinging Down the Lane" っていうんだ。セントポール学院の木にぶら下がっていた猿を思い出させるんだ 」
大きな笑みがテリィの顔に浮かんだ。
キャンディは、テリィが遠回しに自分のことを言っていると気づいた。
「テリィ!!」
キャンディは、抗議してテリィを押しやった。
テリィは、キャンディの腰を抱きながら笑っていた。
「さぁ、レディ・そばかす」
テリィはキャンディの腰に手を回したまま立ち上がると、キャンディを引き寄せた。
「メイドのチェルシーが台所に食事を用意してくれているらしい 」
台所には、大きな丸い銀色の蓋の下にミンチパイとフルーツサラダが置かれていた。
「もう、フィレ肉やら、子羊のかつやら、デヴィルドエッグといった四コースメニューにはありつけないのか──」
「準備するわね 」
キャンディが台所で皿を探している間に、テリィは応接間に行くと酒瓶を棚から取り出して飲み物を作りはじめた。
台所に戻ると、一つはキャンディに渡し、もう一つは自分用に持っていた。
「ミント・ジュレップさ 」
キャンディは、一口、口にした。
夏の夜は暑い。
ミントの甘い味は新鮮だった。
キャンディとテリィは、食べ物と飲み物をポーチの外に運び出し、ポーチの階段に腰掛けた。
月夜を見上げ、涼やかな虫の音を聞きながら、テリィは、今夜が終わらなければいいと願った。
「こんな夜を毎晩一緒に過ごせるんだぜ」
流れ星が夜空をよぎっていく。
キャンディは、虫や蛙の鳴き声を聞いて笑った。
「ロンドンや、ニューヨークの夜はこんなじゃないわね」
「あぁ、そうだな。都会にはないな、こんな夜は──」
テリィも笑って、空の皿を横に置いた。
片手に飲み物を持ちながら、別の手ではキャンディの髪を指に絡ませていた。
「君と一緒ならこんな夜を毎晩過ごしたいけどな」
キャンディは、ほほ笑んだ。
「中に戻ろう」
テリィは、手を差し出し、キャンディが立ち上がるのをエスコートした。
応接間に戻ると、テリィは自分用にウィスキーを、キャンディにミントジュレップを作った。
蓄
音機にレコードをかけると、タンゴ曲で空気が満ちていく。
「今度は何を企んでいるの?」
テリィは、キャンディに近づいて行くと訊ねた。
「メイ・フェスティバルを覚えているかい? 」
初めての口づけ、その後のやり取り、あの日の出来事を思い出して、キャンディは笑みを浮かべた。
「今度はちゃんと踊ろうぜ」
テリィはそう言うと、手を差し出した。
「お姫様、一曲お相手を──」
キャンディは声を上げて笑うと、テリィの手を取った。
テリィは、キャンディをタンゴへと誘う。
キャンディは、タンゴダンスを知らなかった。
テリィは、手慣れた様子でキャンディの動きをリードし、キャンディをクルリと回すと、腰をつかんだ。
キャンディは、自分の体が抱き起こされる前に、背中が後ろに折れ曲がってしまうのではないかと感じた。
「テリィ、いつの間にこんなにダンスが上手になったの?」
キャンディは、心底驚いた。
「君をくどきおとしに戻らないといけない、と気づいたときさ」
テリィは、からかって言った。
キャンディに答える間を与えず、テリィはキャンディを解き放ち、背を反らせると再び抱き寄せた。
キャンディは、爽快さを楽しんだ。
二人は、曲から曲へと曲調を変えて踊り続けた。
ア
ルコールが回ってきたのかキャンディは上機嫌だった。
テリィは、キャンディを抱き上げたり、クルクル回したりとキャンディの動きの全てを操っていた。
キャンディは、思わず吹き出してしまった。
今までのどんなことよりも楽しい経験だった。
テリィは、キャンディが笑いながら活き活きと踊る姿を見ていた。
キャンディの髪が乱れはじめ、お酒とダンスで赤く火照った顔に、張り付いていた。
テリィは、キャンディへの思いをもう抑えたくなかった。
踊り疲れてバランスを崩し、突然キャンディの背中がピアノにぶつかり、二人は踊りを止めた。
笑いながら、息を整え、互いに見つめ合う。
テリィは、キャンディを抱き寄せると激しく口づけた。
キャンディもそれに応じ、すべてを忘れて身を任せた。
キャンディは、テリィの手が背中をなぞっているのを感じていた。
テリィの口づけは、唇にとどまらず、キャンディの首筋や肩をも求め始めた。
キャンディの肌にかかるテリィの熱い吐息は、昨日の湖畔の波と同じように、溢れ出そうとする感情の波と重なり合っているようだった。
キャンディは、ドレスの肩紐が外されていくのに気づいた。
(アーロン!)
「だめ!わたしには出来ないわ!」
キャンディは、テリィを突き放した。
テリィは、まるで催眠術から覚めたような瞳でキャンディを見た。
「出来ない、......アーロンに隠れて......」
キャンディは、そう言うと、階段へと向かった。
自分の部屋に駆け上がる前に、振り返り告げた。
「ごめんなさい......」
キャンディは、部屋の扉を閉めると鍵をかけた。
大きく息を吸い込み呼吸を整えようと努めた。
キャンディは、『ごめんなさい』と告げた時のテリィの顔が忘れられなかった。
胸が苦しくて、気持ちが沈んでいった。
キャンディは扉に寄りかかった。
テリィが扉の外にいることなど気づきもしないで──。
キャンディが走り去った後、テリィはゆっくりと、キャンディの後を追った。
部屋の前で、躊躇っていた。
( おれはどうしたらいいんだ?──慰めるのか?──謝るのか?)
どちらもしなかった。
ただ苛ついていた。
テリィは、振り返ると、扉に寄りかかった。
キャンディが扉の向こうで、同じように寄りかかっていることなど露程も知らずに──。
テリィには、どうしていつも、誰かが、何かが二人の間に割り込んで邪魔をするのか、分からなかった。
二人は長い間、ただ扉を挟んでお互いに背中合わせ、立ちすくんでいた。
それぞれに自己を失い、お互いがほんの少ししか離れていないことなど知らぬまま──。