テリィは、今では自分の家にある、そのピアノの前に座っていた。
ピアノを見る度に、その美しさに感嘆せずにいられなかった。
それは突然、動物好きで、かつて路上での喧嘩から助けてくれたアルバートの手紙によってもたらされた。
『やあテリィ
突然の手紙で失礼するよ。
でも君を頼っても良いだろうか、旧友よ。
君は、僕の記憶がすっかり戻って、また旅をしている事を喜んでくれるだろう。
僕の家族が、サン・パウロで事業をしていると知ってね、今はそこで手伝いをしている。
最近、ニューヨークにいる遠い親戚が亡くなったんだ。
彼は骨董品の愛好家でね。
どうやら貴重な所蔵品の中から、骨董のピアノを僕に遺してくれていたんだよ。
僕は全く音楽には興味がないのだが、このピアノは、かなりの価値があると言われてね。
まあとにかく、僕を思ってくれた人からの贈り物だし、きちんと取り扱いたかったんだ。
ところが、サン・パウロにいる僕には、今受け取るのは不可能だ。
アメリカに現住所も無いし、何処に送るにも不都合でね。
そんな時に、君がニューヨークにいる唯一の知り合いだと、思い出したんだ。
僕の為に保管しておいてくれないだろうか?
次にアメリカに帰った時は、受け取りに行くと約束するよ。
ニューヨークにいる故人の弁護士と、財産管理人には君に連絡するよう伝えておいた。
頼りにしていいんだろう、旧友?恩に切るよ。
心より
アルバート』
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テリィは、アルバートがキャンディの事を何も言っていないことに気づいた。
(──アルバートさんは、もうキャンディとは一緒に住んでいないってことか。キャンディはまだ一人なのだろうか......)
テリィを訪ねて来た弁護士が、この手紙をくれた。その後間もなく、テリィの許可で、ピアノは自宅へと届けられた。
テリィも驚いたが、それは真実、絶妙な楽器だった。
保管状態も抜群だ。
全体はローズウッドから作られていたが、脚は黒い蛇紋石だった。
彫刻のデザインは洗練されていて、一流の職人によって施されていた。
テリィがいくつか鍵盤をたたくと、奏でる音は、研ぎ澄まされた小さな鐘が鳴っているようだった。
テリィがそのピアノを初めて弾いた途端、ふいに思い出がよみがえった。
『もっとぼくのピアノを聴きたかったら窓を飛び超えておいで。さあ、メスザルならお得意だろう』*5
『メスザル、メスザルって、ほんと、失礼なひとね!』
穏やかな微笑が、テリィの顔に浮かんだ。
テリィは、モーツァルトの子守唄を弾き始めた。
テリィは、背後でスザナが見ていることに気付いていた。
しかしピアノを弾いているうちに、スザナがそこにいるにも関わらず、一人になれる空間へと押し出されているように感じた。
テリィは、すぐに音楽にのめり込んでいった。静かな子守唄は終わり、荒々しいふざけた曲調へと変わった。
テリィが鍵盤に沿って指を走らせると、音符は息を吹き返す。
『なんて曲なの?』*6
キャンディは、テリィの後ろに立つ。
『即興だよ。題して、"ターザンそばかすとメスザルのテーマ "!』
自分でも気付かぬ内にテリィは、吹き出した。
ピアノを弾きながら、テリィはキャンディとのピアノレッスンを思い出していた。
テリィが弾き終わると、スザナがこう言うのが聞こえた。
「テリィ、あなたがピアノを弾けるなんて知りませんでしたわ。何に笑っていらしたの?」
──テリィは鍵盤を見つめ、スザナを見ずに答えた。
「──何でもない。笑ってなんていないさ」
平静さを無理矢理装った。
張り詰めた静寂に包まれる。
(──我慢できない。スザナのそばにいるべきなのに、スザナを......見たくもない )
テリィは、またピアノを弾き始めた。
(ピアノはいい。張り詰めた沈黙を埋め尽くすには、いい方法だ )
スザナは、テリィがピアノを弾くのをただじっと見ていた。
テリィは、音楽にのめり込んでいった。
俯いた瞳のままのテリィは、この世の全てから切り離された空間に包まれ、そして、そこはスザナには手の届かない場所であった。
するとテリィの奏でる音楽は、突然陽気で明るい踊るようなモーツァルトの楽曲から、心をかき乱すものへと変わった。
調和もなく、全くもってバラバラだった。テリィは、音楽そのものが心をかき乱すように夢中で弾いた。
不協和音がやっと終わると、スザナはテリィに尋ねた。
「......何ておどろおどろしい音楽なのでしょう、テリィ。今弾いていたのは何なのですか?」
テリィは、イライラしないように気をつけ、間を置き、静かに言った。
「シェーンベルク 3つのピアノ曲 op11」
そうしてテリィは、また同じ曲を弾き始めた。
同じ部屋にいながらにして、スザナには、テリィがピアノを弾いている時以上に、テリィの存在を遠く感じることは、無かった──。
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参考資料
*5
名木田恵子著
小説キャンディキャンディファイナルストーリー下巻
祥伝社 2010年11月10日 発行
53頁
*6
上記同
92頁