3−1 眩暈
昨夜は、勉強をする気にはなれなかった。
それに眠れないのではないかとも思った。だが配合飼料のナノカプセルに含まれる、おそらくはメラトニンやオレキシンなどによる睡眠リズムの習慣的制御により、気にする必要はなかった。
目覚めも悪くはなかった。おそらく、やはりナノカプセルに含まれる賦活作用のある薬剤による効果だろう。
もっとも、実際に疲れが残っていたとしても問題にはならない。あるいは適度な過労程度なら問題にならない。リン酸の蓄積、ミトコンドリアにおけるATP産生能の低下に応じ、セロトニン、ドーパミン、その他の内分泌以外の薬剤がナノカプセルから放出される。一時的なものであればそれらで対応可能であり、そして実際に一時的な対処でかまわない。
これらは、ローテーションによる就労時間の移動にも有効に機能している。
地下鉄には、いつものとおりの広告に溢れていた。
「よりよい理性をあなたに」
昨晩の8579との会話――そう呼べるなら――を思い出す。
能動的に参照することすらできないのだとしたら、その理性はどこにあるのだろう。
なぜ、Blue-4-Black、いやblackである私には、そういう広告のみを――ほとんどそういう広告のみを、見せるのだろう。
あるいは、なぜ、他の人には「流行の......」という広告のみを――ほとんどそういう広告のみを、見せるのだろう。
広告も自己批判療法も含め、心理操作を行なっている。いくつかの、認知バイアスと呼ばれるものがある。広告も自己批判もそれらを行ない、または形成し、維持している。それはわかっている。だが、なぜこれほどの頻度で行なうのか。
礼賛日もそうだ。10日に一度も、なぜ行なう必要があるのか。
養育院のころから、グラスに慣れ、あるいは依存しているのだ。まだ私の親の世代がいるからだろうか。親の世代は家族を知っている。たとえ、家族制度が廃止されるころには、既にグラスに慣れ、あるいは依存していたとしても。
「親か」
私は呟いた。
私の世代では、既に社会に出る前に生殖能力は奪われている。家族などに惑わされない、個人であることを優先するために。
その代りにあるものは、White、Black、YellowおよびOrange、GreenとRedとBlueという四つの階級。それぞれの中での1位から4位の階級。エンハンスト=1、2、3、そして0という階級。それらがもたらすものは、それらの組み合せによって分断された階層。そして各階層はさらにローテーションの5つの班にわけられている。明確な320個のグループ。
そこにあるのは班の中での曖昧な仲間意識。そして64個の階級の間での、相互の差別、排除、蔑視。
では、広告や遊興館や礼賛劇場はなんのためにあるのだろう。
徹底した個人であることを補償するように、それらは存在している。
もし、本当に個人であったとしたら、なにが起こるだろう。寄る辺なき個人。
そうだとして、なにが問題なのだろう。私はずっとそうだ。
いや、違う。私にはキューブがある。なによりも、祖母がかけた呪いも。
祖母の言葉を思い出した。
「何のために生まれてきたのか。何に呼ばれて生まれてきたのか」
もし、何かに呼ばれて生まれてきた人間など少数だとしたら。
「お前がなにをしたのかは、お前が知っている」
そう。私は知っている。では、そう考える人間など少数だとしたら。
そうだとしたら、自分が何者であるのか、そこから外部において規定されなければならないのだろうか。
類人猿、猿、狼の群には、αが存在し、序列が存在する。
人間の社会においても、古くからαが存在し、序列が存在する。頭を少し左右に揺すり、キューブから学んだことが転がり出てくるのを待つ。古い、とても古い狩猟採集の時代にはどうだったのだろう。得たものは平等に分けたという説が転がり出てきた。ではαは存在しなかったのか。いや、やはりαはいたし、序列もあった。狩猟採集で得たものの扱いと、それらはかろうじて異なるものであった。あるいはαと序列の存在が、得たものの扱いを保証していた。
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よろこびにつつまれて
Science Fictionよろこびにつつまれた幸せな世界。 ザミャーチンの「われら」、ハクスリーの「素晴らしい新世界」、オーウェルの「1984年」などなど、そういうのがいろいろ入っています。