二 ふたつの顔

 次郎は今朝から事務室にこもって、第十回の塾生名簿(じゅくせいめいぼ)を謄写版(とうしゃばん)で刷っていたが、やっとそれが刷りあがったので、ほっとしたように火鉢(ひばち)に手をかざした。しかし、火鉢の炭火(すみび)はもうすっかり細っていた。謄写インキでよごれた指先が痛いほどつめたい。  塾堂の玄関(げんかん)は北向きで、事務室はその横になっているので、一日陽(ひ)がささない。それに窓の近くに高い檜(ひのき)が十本あまりも立ちならんでいて青空の大部分をかくしている。つるつるに磨(みが)きあげられた板張りの床(ゆか)が、うす暗い光線を反射しているのが、寒々として眼(め)にしみるようである。  かれは火鉢に炭をつぎ足そうとしたが、思いとまった。そして、刷りあげた名簿をひとまとめにしてかかえこむと、すぐ中廊下(なかろうか)をへだてた真向かいの室にはいって行った。そこは食堂にもなり、座談会や、そのほかのいろいろの集まりにも使われる畳敷(たたみじ)きの大広間なのである。  事務室からこの室にはいって来ると、まるで温室にでもはいったようなあたたかさだった。午前十時の陽が、磨硝子(すりガラス)をはめた五間ぶっとおしの窓一ぱいに照っており、床(とこ)の間(ま)の「平常心」と書いた無落款(むらっかん)の大きな掛軸(かけじく)が、まぶしいほど明るく浮き出している。  次郎は、かかえて来た刷り物を窓ぎわの畳の上に置いて、硝子戸を一枚あけた。霜(しも)に焼けたつつじの植(う)え込(こ)みが幾重(いくえ)にも波形に重なって、向こうの赤松(あかまつ)の森につづいている。空は青々と澄(す)んでおり、風もない。窓近くの土は、溶(と)けた霜柱でじっくりぬれ、あたたかに光って湯気をたてていた。  次郎はしばらく窓わくに腰(こし)をおろしてそとをながめていたが、やがて陽を背にして畳にあぐらをかき、名簿を綴(と)じはじめた。クリップをかけるだけなので、六七十部ぐらいは大して時間もかからなかった。  名簿を綴じおわると、かれは窓わくによりかかり、じっと眼をとじて考えこんだ。開塾の準備は、これですっかりととのったわけで、天気はいいし、いつもなら、新しい塾生を迎(むか)える喜びで胸が一ぱいになるはずなのだが、今度はどうもそうはいかない。開塾が近づくにつれて、かえって気持ちが落ちつかなくなって来るのである。それは、このごろ、ともすると、かれの眼にうかんで来る二つの顔があったからであった。まるで種類のちがった、そして、おたがいに縁(えん)もゆかりもない二つの顔ではあったが、それが代わる代わる思い出され、全くべつの意味で、かれの気持ちを不安にしていたのである。  その一つは、荒田直人(あらたなおと)という、もう七十に近い、陸軍の退役将校の顔であった。  この人は、中尉(ちゅうい)か大尉かのころに日露(にちろ)戦争に従軍して、ほとんど失明に近い戦傷を負(お)うた人であるが、その後、臨済禅(りんざいぜん)にこって一かどの修行をつみ、世にいうところの肚(はら)のすわった人として、自他ともに許している人である。それに家柄(いえがら)も相当で、上層社会に知人が多く、士官学校の同期生や先輩(せんぱい)で将官級になった人たちでも、かれには一目(いちもく)おいているといったふうがあり、また政変の時などには、名のきこえた政治家でかれの門に出入りするものもまれではない、といううわささえたてられているのである。  次郎がこの人の顔をはじめて見たのは、第七回目の開塾式の時であった。その日、かれは玄関(げんかん)で来賓(らいひん)の受付をやっていた。受付といっても、いつもなら来賓はほんの六七名、それも創設当初からの深い関係者で、塾の精神に心から共鳴している人たちばかりだったので、かれにはもう顔なじみになっていたし、ただ出迎えるといった程度でよかったのである。ところが、その日は、いつもの来賓がまだ一名も見えていない、定刻より三十分以上もまえに、一台の見なれない大型の自家用車が玄関に乗りつけた。そして、その中から、最初にあらわれたのは、眼の鋭(するど)い、四十がらみの背広服(せびろふく)の男だったが、その男は、車のドアを片手で開いたまま、もう一方の手を中のほうにさしのべて言った。 「着(つ)きました。どうぞ。」  すると、中のほうから、どなりつけるような、さびた声がきこえた。 「ゆるしを得たのか。」 「は。......いいえ。」 「ばかッ。」  次郎はおどろいた。そして、思わず首をのばし、背広の男の横から車の内部をのぞこうとした。しかし、かれがのぞくまえに、背広の男はもうこちらに向きをかえていた。そして、てれくさいのをごまかすためなのか、それとも、それがいつものくせなのか、変に肩(かた)をそびやかして、玄関先のたたきをこちらに歩いて来た。  かれは、帽子(ぼうし)をとっただけで、べつに頭もさげず、ジャンパー姿の次郎をじろじろ見ながら、いかにも横柄(おうへい)な口調(くちょう)でたずねた。 「今日は新しく塾生がはいる日ですね。」 「そうです。」 「式は何時からです。」 「もうあと三十分ほどではじまることになっています。」 「荒田さんがそれを見学したいといって、今日はわざわざお出でになっていますが、そう取次いでくだい。」 「荒田さんとおっしゃいますと?」 「荒田直人さんです。田沼(たぬま)理事長にそうおつたえすればわかります。」 「田沼先生はまだお見えになっておりませんが......」 「まだ?」 「ええ、しかし、もうすぐお見えだと思います。」 「塾長は?」 「おられます。」 「じゃあ、塾長でもいいから、そう取り次いでくれたまえ。」  次郎は、相手の言葉つきが次第(しだい)にあらっぽくなるのに気がついた。しかし、もうそんなことに、むかっ腹(ぱら)をたてるようなかれではなかった。かれは物やわらかに、 「じゃあ、ちょっとお待ちください。」  と言って、玄関のつきあたりの塾長室に行った。そして、すぐ朝倉先生といっしょに引きかえして来て、二人分のスリッパをそろえた。  朝倉先生は、いつもの澄(す)んだ眼に微笑(びしょう)をうかべながら、背広服の男に言った。 「私、塾長の朝倉です。はじめてお目にかかりますが、よくおいでくださいました。さあどうぞ。」  それはいかにも背広の男を荒田という人だと思いこんでいるかのような口ぶりだった。 「はあ、では......」  と、背広の男は、いくらかあわてたらしく、さっきとはまるでちがった、せかせかした足どりで自動車のほうにもどって行った。そして、 「田沼さんはまだお見えになっていないそうですが、さしつかえないそうです。」  と、まえと同じように、片手を自動車の中にさしのべた。 「どうれ。」  うなるようにいって、背広の人に手をひかれながら、自動車からあらわれたのは、縫(ぬ)い紋(もん)の羽織(はおり)にセルの袴(はかま)といういでたちの、でっぷり肥(ふと)った、背丈(せたけ)も人並(ひとなみ)以上の老人だった。黒眼鏡をかけているので、眼の様子はわからなかったが、顔じゅうが、散弾(さんだん)でもぶちこまれたあとのようにでこぼこしていて、いかにもすごい感じのする容貌(ようぼう)だった。  二人が近づくのを待って、朝倉先生があらためて言った。 「あなたが荒田さんでいらっしゃいますか。私は塾長の朝倉です。今日はよくおいでくださいました。さあ、どうぞこちらへ。」 「塾長さんですか。荒田です。」  と、老人はかるく首をさげたが、顔の向きは少し横にそれていた。それから、背広の人にスリッパをはかせてもらって玄関をあがり、そろそろと塾長室のほうに手をひかれて歩きながら、 「田沼さんが青年塾をはじめられたといううわさだけは、もうとうからきいていました。わしも青年指導には興味があるんで、一度見学したいと思っていたところへ、つい昨日、ある人から今日の開塾式のことをきいたものじゃから、さっそくおしかけてまいったわけです。ご迷惑(めいわく)ではありませんかな。」 「いいえ、決して。......迷惑どころではありません。......理事長も喜ばれるでしょう。......実は、ごくささやかな、いわば試験的な施設(しせつ)だものですから、各方面のかたに大げさな御案内を出すのもどうかと思いまして、いつも内輪(うちわ)の者だけが顔を出すことにいたしているようなわけなんです。」  朝倉先生は、べつにいいわけをするような様子もなく、淡々(たんたん)としてこたえた。すると、荒田老人は、ぶっきらぼうに、 「これからは、わしもその内輪の一人に、加えてもらいたいものですな。」  朝倉先生も、それにはさすがに面くらったらしく、 「はあ--」  と、あいまいにこたえて、塾長室のドアをひらいた。  塾長室のドアがしまると、ほとんど同時に田沼理事長が自動車を乗りつけた。次郎が出迎えて、小声で荒田老(あらたろう)のことを話すと、 「そうか。」  とうなずいて、すぐ塾長室にはいって行ったが、次郎には、気のせいか、そのうなずきかたに何か重くるしいものが感じられた。  そのあと、いつもの顔ぶれの来賓(らいひん)がつぎつぎに見え、せまい塾長室はいっぱいになった。しかし、廊下にもれる話し声は、これまでの開塾式の日のようににぎやかではなかった。まるで話し声のきこえない時間がむしろ多いぐらいだった。次郎はいやにそれが気がかりだった。河瀬(かわせ)という少年の給仕がいて、茶菓(さか)をはこんだりするために、たびたび塾長室に出はいりしていたので、かれに中の様子をきいてみようかとも思ったが、それも何だか変だという気がして、ただひとりで気をもんでいた。  定刻になって塾生を式場に入れ終わると、かれは来賓を案内するためにすぐ塾長室にはいって行ったが、その時にも、話し声はほとんどきこえなかった。見ると荒田老は両腕(りょううで)を深く組み、その上にあごをうずめて、居眠(いねむ)りでもしているかのような格好(かっこう)をしていた。ほかの人たちの中にも、頭を椅子(いす)の背にもたせて眼をつぶっているものが二三人あった。あとはみんなめいめいに塾生名簿に眼をとおしていたが、それも気まずさをそれでまぎらしているといったふうであった。  やがて式場に案内されて着席してからの荒田老の姿は、まさに一個の怪奇(かいき)な木像であった。式の順序は一般(いっぱん)の教育施設とたいして変わったこともなく、何度か起立したり着席したりしなければならなかったが、老は着席となると、必す両手をきちんと膝(ひざ)の上におき、首をまっすぐにたて、黒眼鏡の奥(おく)からある一点を凝視(ぎょうし)しているといった姿勢になった。そして壇上(だんじょう)の声は、理事長、塾長、来賓と三たび変わり、たっぷり一時間を要したにもかかわらず、老は身じろぎ一つせず、黒眼鏡から反射する光に微動(びどう)さえも見られなかったぐらいであった。  式がすむと、来賓も塾生といっしょに昼食をともにする段取りになっていた。しかし荒田老は式場を出るとそのまま塾長室にもはいらず、すぐ帰るといいだした。理事長が食事のことを言って引きとめようとすると、 「めし? わしはめしはたくさんです。」  と、そっけなく答え、付(つ)き添(そ)いの背広の男をうながし、さっさと自動車に乗ってしまった。  朝倉夫人は第一回以来のしきたりで、その日は入塾生のこまごました世話をやいたり、炊事(すいじ)のほうの手助けをしたりしていたため、開式になって、はじめて荒田老の怪奇な姿に接し、非常におどろいたらしかった。そして、午後になって、理事長以下来賓が全部引きあげたあと、次郎に今朝のいきさつを話してきかされ、なお塾長室で、朝倉先生と三人集まっての話のときに、先生から老の人物や、その社会的勢力などについてあらましの話をきくと、夫人はさすがに心配そうに眉根(まゆね)をよせて言った。 「塾の中だけのむずかしさなら、かえって張(は)りあいがあって楽しみですけれど、外からいろいろ干渉(かんしょう)されたりするのは、いやですわね。」  しかし、朝倉先生はそれに対して無雑作(むぞうさ)にこたえた。 「外からの圧力の加わらない共同生活なんか、あり得ないさ。あっても無意味だろう。そういう点からいって、実はこれまでのここの生活は少し甘(あま)すぎたんだ。これからがほんものだよ。」  その後は、開塾式にも閉塾式にもきまって荒田老の姿が見えた。こちらからそのたびごとに案内を出すことになったのである。式場における理事長と塾長とのあいさつは、時によって多少表現こそちがえ、趣旨(しゅし)は第一回以来少しも変わっていないので、荒田老も何回となく同じ内容のことをきくわけであった。そして式がすむとすぐ帰ってしまうのだから、何がおもしろくて毎回わざわざ顔を見せるのか、次郎にはわけがわからなかった。世間には来賓祝辞を所望(しょもう)される機会が来るのを一つの楽しみにして、学校の卒業式などに臨(のぞ)む人も少なくはないが、それにしては人がらが少し変わりすぎている。少なくとも、それほど低俗(ていぞく)で凡庸(ぼんよう)な人物だとは思えない。内々心配されているように、指導方針について何か文句をつけたがっているとすれば、すでに最初からがその機会だったはずである。にもかかわらず、いつも黙々(もくもく)として式場にのぞみ、黙々として理事長と塾長とのあいさつをきき、そして黙々として帰って行く。次郎には、それが不思議でならないのだった。怪奇な容貌(ようぼう)がいよいよ怪奇に見え、気味わるくさえ感じられて来たのである。  しかしこの謎(なぞ)は、このまえの第九回の開塾式の日についに解けた。  その日、荒田老は、めずらしく式後に居残(いのこ)ってみんなと食事をともにした。そして食事がすんだあとも、いつになく軽妙(けいみょう)なしゃれを飛ばしたりして、他の来賓たちと雑談をかわし、なかなか帰ろうとしなかった。で、いつもなら食後三十分もたてば引きあげるはずの他の来賓たちも、荒田老に対する気がねから、かなりながいこと尻(しり)をおちつけていた。しかし二、三の来賓がとうとうたまりかねたように立ちあがり、その一人が荒田老に近づいて、 「お先にはなはだ失礼ですが、ちょっと急な用をひかえていますので......」  と、いかにも恐縮(きょうしゅく)したようにいうと、荒田老は、黒眼鏡の顔をとぼけたようにそのほうに向けて答えた。 「わしですか。わしにならどうぞおかまいなく。......今日はわしは午後までゆっくり見学さしてもらうことにしておりますので。」  それから朝倉先生のすわっているほうに黒眼鏡を向け、 「塾長さん、ご迷惑ではないでしょうかな。」 「いいえ、いっこうかまいません。どうぞごゆっくり。」  朝倉先生は、みんなの緊張した視線の交錯(こうさく)の中でこたえた。わざとらしくない、おちついた答えだった。 「実はね、塾長さん--」  と、荒田老はいくらか威圧(いあつ)するような声で、 「式場であんたのいわれることは、毎度きいていて、大よそは、わかったつもりです。しかし、ちょっと腑(ふ)におちないところがありましてな。--これは、理事長のいわれることについても同じじゃが。--で、もう少し立ち入っておききしたいと思っているんです。」 「いや、それはどうも。......なにぶん式場ではじっくり話すというわけにはまいりませんので。で、どういう点にご不審(ふしん)がおありでしょうか。」  立ちかけていた来賓たちも、そのまま棒立ちになって、荒田老の言葉を待っていた。すると荒田老はどなるように言った。 「わしとあんたの間で問答しても、何の役にもたたん。」 「は?」  と、朝倉先生はけげんそうな顔をしている。 「あんたがこれから塾生に何を言われるか、それがききたいのです。」 「なるほど、ごもっともです。」  朝倉先生は微笑(びしょう)してうなずいた。 「今日、式場で、あんたは午後の懇談会(こんだいかい)であんたの考えをもっと委(くわ)しく話すといわれましたな。」 「ええ、申しました。」 「わしは、それを傍聴(ぼうちょう)さしてもらえば結構です。」 「なるほど、よくわかりました。どうか、ご随意(ずいい)になすっていただきます。」  来賓たちは、あとに気を残しながら、間もなく引きあげた。田沼(たぬま)理事裏もすぐあとを追って引きあげたが、立ちがけに荒田老の肩(かた)を軽くたたきながら、冗談(じょうだん)まじりに言った。 「どうぞごゆっくり、私はお先に失礼します。あとは塾長まかせですが、塾長に何かまちがったことがありましたら、お叱(しか)りは私がうけますから、よろしく願いますよ。」  荒田老は、それに対してはうんともすんとも答えず、腕を組んで木像のようにすわっているきりだった。  そのあと、玄関で、塾長と理事長との間に小声でつぎのような問答がかわされたのを、次郎はきいた。 「行事はいつもの通りにすすめていくつもりです。」 「むろん。」 「さけ得られる摩擦(まさつ)はなるだけさけたいと思っていますが......。」 「そう。それはできるだけ。......しかし、それも塾の方針があいまいにならない程度でないと......」 「それは、いうまでもありません。」  やがて午後の懇談会の時刻になった。合い図はすべて、事務室の前につるした板木(ばんぎ)--寺院などでよく見るような--を鳴らすことになっていたが、次郎がその前に立って木槌(きづち)をふるおうとしていると、荒田老の例の付き添いの男--鈴田(すずた)という姓(せい)だった--が、塾長室から急いで出て来てたずねた。 「懇談会はどこでやるんです。」 「さっき食事をした畳敷きの広間です。」 「あ、そう。」  と、鈴田はすぐに塾長室に引きかえした。そして、次郎がまだ板木を打っている間に、荒田老の手を引いて広間にはいって行った。  次郎が板木を鳴らしおわって広間にはいったときには、荒田老はもう窓ぎわに、鈴田とならんでどっしりとすわりこんでいた。次郎が床(とこ)の間(ま)のほうを指さして、 「どうぞこちらに。」  というと、鈴田はだまって手を横にふり、ただ眼だけをぎらぎら光らした。  やがて朝倉夫人が炊事場のほうから手をふきふきやって来て、しも手の入り口から中にはいった。ほとんど同時に、朝倉先生もかみ手のほうの入り口からはいって来た。  二人は代わる代わる荒田老に上座(かみざ)になおってもらうようにすすめた。しかし老は、黒眼鏡を真正面に向けたまま黙々としてすわっており、鈴田は眼をぎらつかせて手を横にふるだけだった。  塾生はそれまでにまだ一名も集まっていなかった。それからおおかた五分近くもたって、やっと四十数名のものが顔をそろえたが、しかしみんなしも座のほうに窮屈(きゅうくつ)そうにかたまって、じろじろと荒田老のほうを見ているだけである。 「いやにちぢこまっているね。そんなふうに一ところにかたまらないで、もっとのんびり室をつかったらどうだ。」  床の間を背にしてすわっていた朝倉先生が笑いながら言った。夫人は先生の右がわに少し斜(なな)め向きにすわっていたが、しきりに塾生たちを手招きした。  塾生たちは、それでやっと立ちあがり、前のほうに進んで来るには来たが、しかし、今度おちついた時には、講演でもきく時のように、みんな正面を向いてすわっていた。しかも、朝倉先生との間には、まだ畳二枚ほどの距離(きょり)があった。 「これから懇談会をやるはずだったね。そうではなかったのかい。」  朝倉先生が一番まえの塾生にたずねた。 「はあ。」  と、たずねられた塾生は、何かにまごついたように、隣(とな)りの塾生の顔をのぞいた。 「これでは、しかし、懇談ができそうにもないね。一たい君らは、村の青年団で懇談会をやる時にも、こんな格好(かっこう)に集まるのかね。」  みんながおたがいに顔を見合わせた。 「懇談会なら懇談会のように、もっと自然な形に集まったらどうだ。塾長と塾生とが川をへだてて相対峙(あいたいじ)しているような格好では、懇談できない。第一、これでは君らお互(たが)いの間の話し合いに不便だろう。そんなわかりきったことにまで一々世話をやかせるようでは心細いね。」  そこでみんなは、まごつきながらも、もう一度立ちあがって、どうなり円座(えんざ)の形にすわりなおした。しかしまだ十分ではない。不必要に重なりあって、顔の見えない塾生もある。  すると、先生の左がわにすわっていた次郎が言った。 「だいじょうぶ暴風のおそれはありませんから、そう避難(ひなん)しないでください。」  とうとうみんな笑い出した。笑っているうちに、円座らしい円座がやっとできあがった。  そんなさわぎの中で、荒田老はやはり眉(まゆ)一つ動かさないですわっており、鈴田はあからさまな冷笑をうかべて、みんなを見まもっていた。  座がおちつくのを待って、朝倉先生がおもむろに話し出した。 「けさ式場で、ここの共同生活の根本になることだけはだいたい話しておいたが、これまで諸君がうけて来た団体訓練とはかなりゆきかたがちがっているのではないかと思うし、自然腑(ふ)におちなかった点も多かろうと思うので、懇談にはいるまえに、念のため、もう少しくだいて私の気持ちを話しておきたいと思う。」  次郎は荒田老の顔の動きに注意を怠(おこた)らなかった。黒眼鏡がかすかに動いて、朝倉先生の声のするほうに向きをかえたように思われた。 「私はまず諸君にこの場所を絶海(ぜっかい)の孤島(ことう)だと思ってもらいたい。偶然(ぐうぜん)にも諸君は時を同じゅうしてこの孤島に漂流(ひょうりゅう)して来た。私もむろん諸君と同様、漂流者の一人である。これまではおたがいに名も顔も知らなかったものばかりであるが、運命は、この孤島の中で、おたがいをいっしょにした。まずそう心得てもらいたい。-- 「さて、そう心得ると、おたがいに知らん顔はできないはずである。それどころか、一人ぽっちでなくて、まあよかった、と胸をなでおろし、さっそく言葉だけでもかわしてみたくなるのが自然であろう。多人数の中には、一目見たばかりでいやな奴(やつ)だと思うような相手があるかもしれないが、それでも、絶海の孤島でこれから毎日顔をあわせるように運命づけられた相手だと思えば、好んでけんかをする気にはなれないだろう。できれば表面だけでも仲よく暮(く)らしたいと思うにちがいない。それが自然の人情である。憎(にく)みあうのも自然の人情の一種にはちがいないが、しかし、仲よく暮らすのと憎みあって暮らすのと、どちらがほんとうの人情に合するかというと、それはいうまでもなく前者である。というのは、憎みあって暮らすより、仲よく暮らすほうが愉快(ゆかい)だからである。人情の中の人情、つまりいっさいの人情の基礎をなすものは、愉快になりたいと願う心である。だれも不愉快になりたいと願うものはあるまい。憎みあうのが一種の人情だというのも、もとをただせば、相手が自分を不愉快にする原因になっているからだと思うが、しかし憎みあうことのために、決しておたがいが愉快にならないばかりか、かえっていっそう不愉快さを増すことが明らかである以上、憎みあうのは、いわばとまどいをしている人情で、ほんとうの人情だとはいえないわけである。-- 「そこで、まず第一に私が諸君にお願いしたいのは、このほんとうの人情、だれもがまちがいなくめいめいの胸に抱(いだ)いているこの人情を存分に生かしあいたいということである。宗教・道徳・哲学(てつがく)などの理論を持ち出してやかましいことをいえば、いろいろいうこともあるだろうが、愉快になりたいのがおたがいの偽(いつわ)らない人情であり、そしてそのためにおたがいに仲よく暮らしたいというのも人情であるならば、ひとまずやかましい理屈(りくつ)はぬきにして、その人情を生かしあうことに、ここの共同生活の出発点を定めてもいいのではあるまいかと思う。」  次郎は、これまで、いくたびとなく朝倉先生の話をきいて来たが、今日の表現は全く新しいと思った。塾生を「絶海の孤島の漂流者」に見たてたのもはじめてのことだったし、だれにも納得(なっとく)のいく「人情」に出発して塾の生活を説明しようとしたのも、これまでに例のないことだったのである。かれは先生の言葉にきき入って、いつの間にか荒田老の顔から眼をそらしていた。  先生は、その澄んだ眼をとじたり開いたりしながら、考え考え、話をすすめていった。 「ところで、一口に仲よくするといっても、仲のよさにも、種類があり、深浅(しんせん)の差がある。そして、どうかすると、仲のよいままに、みんなが堕落(だらく)するということがないとも限らない。みんなが堕落するというのは、実はみんながおたがいに人間を殺しあっているからで、それでは真の意味で仲がよいとはいえない。しかも、そうした仲のよさは決してながつづきするものではない。ほんのちょっとしたはずみで冷たくなってしまうか、あるいははなはだしいのになると、仇同士(かたきどうし)のようになってしまうものである。その結果、非常に不愉快になって、愉快になりたいという人情の中の人情もだめになってしまう。-- 「そこでたいせつなのは、おたがいに人間を伸(の)ばしあうようにたえず心を使うということでなければならない。これが諸君に対する私の第二のお願いである。伸ばしあうためには、時にはおたがいに気にくわぬことをいいあったり、尻をたたきあったりしなければならないかもしれない。それはちょっと考えると不愉快なことであり、人情にもとることである。しかし、それを忍(しの)ばなければ、ほんとうの意味で仲よくなれないし、したがってほんとうの意味で愉快にもなれない。つまり人情の中の人情が味わえないということになるのである。-- 「仲よく戒(いまし)めあい、仲よく尻をたたきあうということは、決してなまやさしいことではない。それをうまくやっていくには、随分(ずいぶん)とおたがいの心が深まらなければならないのである。ところで、心が深まるためには、やはりおたがいに戒めあい、尻をたたきあわなければならない。それは最初のうちは愉快でないかもしれないが、しかし、ある程度辛抱(しんぼう)してやっていくうちには、かえってそういうことに大きな喜びを感ずるようになるものである。それは心が深まるからである。そしてそうなると、人間が加速度的に伸びていくし、喜びもそれに伴(ともな)っていよいよ大きく、高く、深くなっていくものである。-- 「さて、第三にお願いしたいのは、おたがいの生活に組織を与(あた)えるための工夫をこらしてもらいたいということである。それは、むろん、ここの共同生活の体裁(ていさい)をととのえるために必要なのではない。組織のための組織を作るような弊(へい)におちいってならないことは、いうまでもない。おたがいが仲よく人間を伸ばしあうのに最も都合のよい組織を作りあげたいのである。-- 「ところで、さっきも言ったとおり、おたがいは、今日ここに漂流して来て、偶然いっしょになったばかりなのだから、どんな組織を作るかということについて、たよりになるような社会伝統というものが全くない。また、過去におたがいと同じような事情のもとに、ここで共同生活を営んだ人たちがあったとしても、その組織がどんなものであったかは、今は全く不明である。要するに伝統は何一つない。すべてはこれからはじまるのである。もっとも、こうした建物があり、森があり、畑があるからには、さがせば過去の漂流者たちが営んだ共同生活の姿をしのぶ材料がいくらかはあるかもしれない。しかし、法律・制度・規則・命令といった種類のものは、何一つ残されてはいない。諸君は私の口からそれを聞きたいと思っているかもしれないが、私もまた今日漂流して来たばかりの人間なのだから、それを知っていよう道理がない。あるいは諸君の中には、私にそうしたものを作ってもらいたいと考えているものがあるかもしれない。しかし、私はただ諸君よりいくらか年をとっているというだけで、この島の生活について無経験であるという点では、諸君と少しも変わるところがない。その点では諸君の先輩(せんぱい)だとさえいえないのだから、まして諸君の指導者でもなければ、命令者でもない。そういうことを私に期待していては、ここの生活は成り立つ見込(みこ)みがない。すべては、諸君自身の努力にかかっているのである。--」  次郎は、いつもなら、朝倉先生がこの大事な一点にふれると、塾生たちのそれに対する反応を見ようとして、いそがしく眼をうごかすところだった。しかし、その時、かれの視線は、かれ自身でも気づかないうちに、荒田老のほうに引きつけられていた。ところで、かれにとって全く意外だったのは、荒田老がその時めずらしく、その木像のような姿勢をくずし、両手を口にあてて大きなあくびをしたことであった。かれが荒田老に予期していたものは、よかれあしかれ、もっと真剣(しんけん)な表情か、さもなくば全くの無表情だったのである。  かれは思わず歯をくいしばった。朝倉先生は、しかし、相変わらずしずかに話をつづけるのだった。 「かように、何一つ伝統もなければ、一人の指導者もいないところでは、おたがいがめいめいの知恵をしぼり、その協力によって組織を作りあげていくよりしかたがない。そこで、これからのここの生活にとって非常に大切なのは創造の精神である。諸君の中には、これまで、伝統や規則や、特定の人の指揮(しき)命令に従って行動するようにのみ訓練され、共同生活訓練といえば、だいたいそうした訓練だと心得ている者があるかもしれないが、ここでの生活はそれとは全くちがわなければならない。全くと言っては少し言いすぎるかもしれないが、ともかくも、まずめいめいに自分で考え、自分で判断し、その考えなり判断なりをおたがいに持ちよって、それを取捨(しゅしゃ)し、選択(せんたく)し、総合して行くのでなければならない。共同生活にとって、遵奉(じゅんぽう)とか服従とかいうことのたいせつなことはいうまでもないが、ここでは守るべき法も、従うべき権威(けんい)もまだできていないのだから、もしそれが必要なら、まずおたがいの努力によってそれを創(つく)りあげていかなければならないのである。伝統や、すでにできあがっている規則や、だれかの指揮命令で動くように慣らされた人にとっては、随分勝手がちがうだろう。何だかたよりないという気がするかもしれない。しかし、たよるべき何ものもない絶海の孤島におたがいが漂流して来たと思えば、それよりほかに道はないわけである。とにかく努力して見ることである。あるいは、中には、--これはまさかとは思うが--組織などなければないでいい、強制がなくてそのほうがかえって気楽だ、と考えているものがあるかもしれない。もし、万一にも、諸君のすべてがそう思っているなら、--いいかえると、それが諸君の精一ぱいの知恵を出しあっての結論なら、私はあながちそれに反対しようとは思わない。何事も経験だから、それではたしておたがいの生活が愉快になるものかどうか、ためして見るのもいいだろう。しかし、常識ある諸君が、まさかそんな乱暴な実験をやるだろうとは、私には信じられない。-- 「考えて見ると、おたがいが、今言ったように知恵をしぼりあって、おたがいの共同社会を建設して行くという生活は、ただ従順(じゅうじゅん)に伝統や規則や指揮命令に従って形をととのえていくというような簡単な生活ではない。それだけにむずかしくもあれば、またその途中(とちゅう)で、いろいろのつまずきも経験しなければならないだろう。あるいは、最後までつまずきの連続で終わるかもしれない。しかし、それも結構である。それでもおたがいの人間が伸び、心が深まり、したがってほんとうの意味で仲のいい愉快な生活がひらけていくなら、命令服従の関係で形だけをととのえていく生活よりははるかに有意義である。要するに、ここの生活は、与えられたある型にはまりこむ生活ではない。あくまでも創る生活である。おたがいに仲よく愉快に暮らしたいという共通の人情に出発して、その人情をできるだけ高く深く生かすような共同の組織とその運営のしかたとを、おたがいの頭と胸と行動とで創り出す生活、そしてその創り出すということに喜びを感ずる生活でなければならないのである。-- 「そこで、最後に言っておきたいのは、おたがいに結果をいそいで自分を偽(いつわ)るようなことをしてはならないということである。形のととのった共同生活の姿を一刻も早くつくりあげようとしていいかげんに妥協(だきょう)したり、盲従(もうじゅう)したり、あるいは人任せにしたりすることは、厳につつしまなければならない。めいめいが正直に、生き生きと自分の全能力を発揮(はっき)しつつ、矛盾(むじゅん)衝突(しょうとつ)を克服(こくふく)し、それを全体として総合し、統一して行く、そういう過程が何よりもたいせつなのである。過程をいいかげんにして、結果だけをととのえてみたところで、諸君は人間として少しも伸びたとはいえない。たとえ結果はどうであれ、その過程さえまじめにふんで行くならば、それで諸君はたしかに伸びたといえるし、ここの生活は、諸君の将来の生活に対して一つの大きな役割を果たすことになるだろう。とかく世間は、形にあらわれた結果だけを見て、いろいろと批評したがるものだが、諸君は世間のそんな批評などに頓着(とんちゃく)する必要はない。諸君はあくまでも純真に、諸君自身の良心の声にきいて、おたがいを伸ばしあうためにはどうすればいいか、それだけに専念すればいいのだ。--」  朝倉先生の言葉の調子(ちょうし)には、これまでになく力がこもっていた。次郎は、思わずまた荒田老の顔をのぞいた。荒田老は、しかし、その時には、もういつもの動かない木像の姿にかえっていた。その代わりに、鈴田がいかにも自分の気持ちをおさえかねたかのように、唇(くちびる)をかみ、眼をいからしていた。 「そこで--」  と、朝倉先生は、調子をやわらげて、 「これからおたがいの生活設計について具体的に話しあいたいと思うが、それには、まず第一におたがいに漂流して来たこの島がどういうところであるか、つまり、おたがいは今どういう環境(かんきょう)におかれているのか、それをみんながはっきり知っておく必要がある。客観的な現実、それを知らないでは、理想も信念もどうにもなるものではないのだから。......で、私は懇談に先だって、まず諸君にこの建物の内外をくまなく探検しておいてもらいたいと思っている。あらましのことはもうわかっているかもしれない。しかし、これからの生活にどこをどう利用し、何をどう使ったらいいか、そういう点まで注意してこまかに見てまわった人は、おそらくまだないだろうと思う。遠慮(えんりょ)はいらない。森や畑はむろんのこと、物置でも、戸棚(とだな)でも、押し入れでも、本箱(ほんばこ)でも、どしどし探検してもらいたい。もっとも、本館の一部に炊事夫(すいじふ)の家族と給仕の私室があり、なお向こうに空林庵(くうりんあん)という別棟(べつむね)の小さな建物があって、そこはここにいる三人の私室になっているので、それだけは除外してもらうことにする。こんな除外例を設けると、絶海の孤島という感じがうすらぐかもしれないが、どうもいたし方がない。」  朝倉先生は、そう言って笑った。みんなも笑った。笑わなかったのは、荒田老と鈴田の二人だけだった。  次郎が勢いよく立ちあがっていった。 「では、約一時間たったら、また板木(ばんぎ)を鳴らしますから、ここに集まって下さい。それまでは自由に探検を願います。」  塾生たちは、面くらったような、しかしいかにも愉快そうな顔をして、いくぶんはしゃぎながら、どやどやと室を出て行った。  塾生たちがまだ出おわらないうちに、朝倉先生が荒田老に近づいて行って、言った。 「長い時間おききいただいて、あうがとうごさいました。しばらくあちらでお休みくださいませんか。」 「いや、もうたくさん。」  荒市老はぶっきらぼうに答えた。そして、 「鈴田、もう用はすんだ。帰ろう。」  と腕組みをしたまま、すっくと立ちあがった。黒眼鏡は真正面を向いたままである。  鈴田はすぐ荒田老の手をひいて歩き出したが、その眼は軽蔑(けいべつ)するように朝倉先生の顔を見ていた。 「もうお帰りですか。どうも失礼いたしました。」  と、朝倉先生は、べつに引きとめもせす、二人を見おくって出た。朝倉夫人と次郎とは、眼を見あいながら、そのあとにつづいた。  荒田老は、それから、玄関口まで一言も口をきかなかったが、自動車に乗るまえに、だしぬけにうしろをふりかえって言った。 「塾長さん、あんたは毎日、新聞は見ておられるかな。」 「はあ、見ております。」 「時勢はどんどん変わっておりますぞ。」 「はあ。」 「自由主義では、日本はどうにもなりませんな。」 「はあ。」 「どうか、命令一下(いっか)、いつでも死ねるような青年を育ててもらいたいものですな。」 「はあ。」  自動車が出ると、朝倉先生は夫人と次郎とをかえりみ、黙(だま)って微笑した。  次郎は、それ以来、荒田老の顔を見ていない。このまえの閉塾式には、案内を出したにもかかわらず、顔を見せなかったのである。田沼理事長に対して、老がその後どんなことをいい、どんな態度に出ているか、それは朝倉先生にはきっとわかっているはずだが、先生は、次郎にはもとより、夫人に対しても、そのことについて何も語ろうとはしない。ただときどき、何かにつけて、 「われわれの仕事も、これからがいよいよむずかしくなって来る。しかし、そうだからこそ、こうした性質の塾が、いよいよたいせつになるわけだ。」  といった意味のことを言うだけである。次郎にしてみると、発生が荒田老のことにふれまいとすればするほど、かえって大きな不安を感じ、第十回の開塾式が近づくにつれ、その顔を思い出すことが多くなって来たわけなのである。

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⏰ Last updated: Mar 16, 2008 ⏰

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